花が咲くように



 ブラウンフェルス城の城門横に構えたホテルの一室からは木組みの家並みがゆったりと流れる時の中に佇んでいる様子がよく見て取れる。石畳の道には観光客が弾んだ声を上げ通り過ぎてゆく。未だ目の覚めない男は、ベッドのうえで何度も寝返りを打ちながらその穏やかな平和を聴いていた。
「おはようございます、エルンスト先生」
 不意に男とも女とも取れぬ美しい声に呼ばれ、その男、エルンスト・ニールマンはゆっくりと老いた身体を起こした。
「おはよう、ルカ」
 エルンストがルカと呼んだ少年は、部屋の入り口に佇み寝惚けた優しい微笑みを前にその冷淡な美貌を微塵も崩さない。エルンストは見慣れたその顔を見詰め、遥か遠い記憶を思い起こした。まだ、エルンストが三十代の頃の事だ。毎朝、毎朝、エルンストはその頃の事を思う。
 呆然と浸っていると、ルカは徐にベッドへと歩み寄った。硝子玉の瞳に見下ろされ、エルンストは思わず喉を詰まらせる。
「心拍数が上がっています。何か心配事でもあるのですか」
「いいや、何もない」
 それ以上ルカは踏み込んで来ず、エルンストは深い溜息を吐いた。

 顔を洗い、チェックアウトを済ませ、ふたりはホテルを後にした。大きな四角い革張りのスーツケースはルカが持ち、エルンストは片手に持っていたハットで見事な白髪を抑え微笑んだ。
「さて、今日は何処へ行こうか」
「今日は雨は降らないようです。散歩をするには適しています」
 観光客が行き交う城前の通りを眺めるエルンストの横顔を真っ直ぐに見詰め、ルカは無機質にそう伝えた。このやり取りも一体何度目か。その疲労感に、エルンストの枯れた唇からは吐息が漏れる。
 ふとふたりの前をじゃれあった子供たちが通り過ぎた。花が咲いたような明るく開けた笑みを浮かべ、彼らは声を上げて笑っている。頬が緩む優しい景色にエルンストも口元を弛ませ、そっとルカの腰に手を添えた。
「ご覧ルカ」
「はい、先生」
 ルカは言われた通り、子供たちを見詰める。
「あれが笑顔だ」
 不純物の何もない、純粋な笑顔。ルカは相変わらず子供たちを目で追いながら、おおきく頷いた。
「はい、それを教えて頂いた回数は二百五十二回目です」
「そう、何度も教えたね」
「はい、先生」
 エルンストはまたひとつ息を吐いた。変わらない返答。変わらないルカ。やはり重い疲労がエルンストの肩を圧した。
「エルンスト先生、交感神経が活性化しています。少しお休みになられた方が」
「いいや、違うんだよ、ルカ」
 優しく首を振り、エルンストは疲れたように笑った。

 エルンストの人生は、全てが順風満帆だった。幼い頃から天才と呼ばれ、自ずと進んだロボット工学における人工知能の分野では、他の追従を許さなかった。何時か必ずノーベル賞を取る人物とまで言われ、若い時分よりドイツでは有名な博士だった。その期待に応えるべく研究所に篭り、日夜研究に明け暮れた年月は二十年をゆうに超える。それはエルンストにとっては何よりの幸福だった。
 しかし、三十代も半ばを越えた頃、ひとりの少年に出逢った。彼は未だ高校生だったが、エルンストが講義を行った高校の生徒で、感銘を受けたと言ってそれから良く研究所に訪れた。彼は聡明な少年だった。そして、美しい顔を綻ばせ良く笑った。まるで、花が咲くように。ふたりは研究所の外でもよく会うようになり、エルンストは年甲斐も無くその少年に恋をした。彼は、エルンストがロボット以外で初めて心を奪われたひとだった。
 告白をしたのは、澄んだ星空の下だった。エルンストはずっと少年の笑顔を隣で見詰めていたかった。けれど、それよりももっと、彼に触れたいと言う願いばかりが肥え太った。君を愛している────たったそれだけの言葉を伝えるに何年も有し、そして熟した想いを伝えた途端、少年は二度とエルンストの前に姿を見せる事は無かった。エルンストの輝かしい人生は、そこで幕を下ろしたのだ。世間に認められる事も、ノーベル賞を取る事も、自分が研究する人工知能が世界の役に立つ事も、全てが、どうでも良くなってしまった。それから少年の面影に縋り、失恋の傷を癒そうと躍起になって────あれからもう、何十年と経っただろうか。

 ふと我に帰ると、ルカは相変わらず真っ直ぐに子供たちの笑顔を見詰めていた。その横顔に、エルンストの胸は圧し上げられるように痛む。その痛みを振り払うよう、彼は足を踏み出した。
「行こうか」
「はい、先生」
 ふたりはブラウンフェルスの街をゆっくりと歩く。擦り切れた靴底を引き摺るように音を立てて歩むエルンストの少し後ろを、ルカは何も言わずについてくる。気が付けば、故郷のミュンヘンをこの少年と旅立ってから随分と長い時が経った。
「もう長い事旅をしているね」
「はい、先生」
 相変わらずルカの返答に抑揚は無く、その表情は求めているあの笑顔を見せてはくれない。エルンストはふと足を止め、自身を見詰めるルカの頬にそっと触れた。
「君はいつ、笑ってくれるのだろう」
 まるで花が綻ぶような美しい笑みを、何時見せてくれるのか。独り言であった筈のその言葉を、ルカは残酷に拾う。
「エルンスト先生が望まれるのでしたら、私は笑う事ができます」
 エルンストの心にまた、疲労感がのしかかる。初恋の少年と同じ顔をした、美しい少年ルカ。しかしその存在はまるで愚かな老父を嘲笑うかのようだった。
「今日は、何処へ行こうか」
 それでもエルンストはまた歩き出す。遥か昔その身に刻まれた、愛おしい傷跡を連れて────。


Recycle

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