『海の唄』



 世界は突然に色を亡くす。悠然と手を広げていた未来が、目にも留まらぬ速さで過去に追い越され、散り散りになってしまう。棺の中で眠る母の顔は、死化粧がよく映える薄い顔をしていた。その死相を思い出し、機内の窓から雲海を眺めため息を吐く。涙はもう出ないけれど、現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだ。
 長いフライトを終え入国審査をパスし、少ない手荷物を受け取り到着ロビーに足を踏み出す。最後にここを訪れた時の記憶通り、小さな空港だ。
「コウ」
 不意に名を呼ばれ、低い天井に伸びていた視線を落とす。どこか懐かしい顔が、歪な顔付きで立っていた。
「久しぶり、父さん」
 そう声を掛けると、大きな瞳からは涙が溢れた。慌ててそれを拭う父を見て、コウはそっと視線を逸らす。人の涙は嫌いだ。決して溶け合う事のない心が、その瞬間だけは触れてしまう気がして。父に連れられロビーを抜け、外に出た途端熱風がふわりと頬を撫でた。まるで子供の落書きのように能天気な青空は、真っ白な入道雲を抱いてコウを見下ろしている。
「覚えているか。ここは変わらないだろう」
 ぎこちなく笑む父の顔は、記憶よりも随分と黒くなった。潮に当てられ皮膚は爛れ、彼が言葉を探すたび皺が緩やかに躍動している。
「覚えているよ」
 コウはそう言って、行き場のない手をポケットに突っ込んだ。
 母が死んだ。突然だった。三ヶ月に及ぶ話し合いの末に、コウは七年前に別れた父に引き取られることになった。八歳まで過ごしたこの地は、日本から遠く離れた国。四方を海に囲まれている所だけは同じだが、それだけだ。だが、この国には透き通る美しい海があった。数えきれぬ海洋生物がその美しい海で暮らしていた。
 荷物を置いて早々に、コウは父の家を出た。舗装されていない黄色い道路の端を歩きながら左に視線を流すと、白い砂浜に波が優しく打ち寄せていた。真っ青な空の色を写した青い波が、時折白く濁っては去ってゆく。ココナッツを大量に積んだ小さなトラックが時折通る道路を十分歩くと、他とは少し違う一軒の家が見えてきた。家の前の桟橋には、ボートが止まっている。コウは一度ボートを覗き、誰もいない事を確認してから家の扉を叩いた。中から顔を出したのは、縮れた赤毛の女。エメラルドグリーンの瞳が、コウを写し揺れる。
「コウ、帰ってきたのね」
「久しぶり、マリア」
 そう言ってマリアは躊躇なくコウを抱き締めた。まだ成長しきらぬコウをすっぽりと抱き竦めたその腕は、すぐに解かれ荒れた手が肩に添えられる。
「少し痩せたわ」
 七年ぶりの再会なのに、とコウは少し笑った。それに安堵したのか、マリアもまた微笑むと扉の中へとコウを導いた。
「みんなに顔を見せてあげて。あなたに会いたがっていたから」
 日本から遠く離れたこの地に来る事を決めた理由は、父だけではない。海洋生物、主にクジラの研究をしているこの施設は、かつてコウが毎日のように通っていた場所だ。クジラの声を初めて聞いたのもこの研究所だった。海を愛おしく思うようになったのも、ここだった。一頻り少ない研究員との再会を終え、コウは残りの一人を探して狭い研究所を見渡した。
「ロブはどこ」
「お散歩しているわ。そのうち帰ってくると思う」
 ロブはこの研究所の所長であり、イギリスから来た老人だ。サンタクロースのような風体が、この南国にあまりにも不釣り合いだった。とても優しく、そしてコウに海を教えてくれたひとである。
「あ、ほら」
 そう言ってマリアが窓の外を指さす。コウははやる気持ちを抑えきれず開け放たれた窓から身を乗り出した。変わらぬ白髪に、立派な白い髭。だが、ロブの隣には見慣れぬ少年の姿があった。
「あれロブの孫?」
「そう、ローア」
 ロブに孫がいたなど聞いた事がないが、当時はまだ幼すぎてそもそもそんな事に気がいかなかった。未知の世界が燦然と光り輝いていただけだ。
「へえ、あまり似ていないな」
「海が大好きな所以外はね」
 マリアの言葉に適当な相槌を打つと、コウは弾かれるように飛び出した。砂浜に杖をついて歩いていたロブは、研究所から突然飛び出した少年の姿に一度大きな瞬きをすると、足を止めて長い腕を広げた。導かれるようにコウがその胸に飛び込むと、痩せた腕がしっかりとその身体を受け止めてくれた。
「コウ、帰ってきたのか」
 ああ、ロブの声だ。その低く枯れた声が与えてくれた輝かしい知識を胸の内に蘇らせる。また彼にこの広い海を教えてもらえる事は、今のコウにとって何よりの喜びだった。
「またあえて嬉しい」
「私もだよ、大きくなった」
 抱擁を終えると、ロブは一歩後ろで佇む少年の肩を抱き、コウに向かい微笑んだ。
「コウ、ローアだ。君より少し年下だが、仲良くしてくれると嬉しい」
 そう促されコウは少年をまじまじと見詰めた。泳いだのだろうか、肩まで落ちる透けるような金色の髪は濡れている。大きな瞳は何処を見るともなしに彷徨っていて、度々長い睫毛に隠される。随分と痩せているようだ。
「ローア、僕は長谷川光。コウって呼んで」
 そう言って手を差し出すと、ローアはコウの白い指先からゆっくりと視線を這わせた。腕を辿り、肩で惑ってようやく視線がぶつかった瞬間、コウは思わず感嘆した。
「綺麗な瞳の色だね。まるで海みたいだ」
 薄い瞼のしたの大きな瞳は、文字通りいま目の前に広がる海の色とよく似ていた。吸い込まれてしまいそうな感覚も、海とよく似ている。コウがその瞳の色に見惚れていると、不意にローアは海を振り返りあまりにも突然走り出した。
「え、ローア!」
 コウがそう叫んだ時には、既に彼は青い波の隙間に消えていた。
「どうしたの」
 驚いてロブに問い掛ける。白んだ瞳は、海の遥を写していた。
「海が好きなんだ。一日中泳いでいるよ。コウも久しぶりに泳いではどうだ。ローアとの海中散歩はきっと刺激的だよ」
「でも、今は水着じゃないから」
「昔は裸で飛び込んでいたじゃないか」
 確かにそうだ。だがまだ、海に抱かれる気分ではなかった。
「また明日にする。明日も来ていい」
 ロブが優しく頷いてくれた時だった。研究所の扉が開き、荷物を抱えたマリアが飛び出した。
「ボス、クジラ達が……!」
「今行く」
 研究員たちは慌てた様子で次々とボートに乗り込んでゆく。
「コウ、また明日おいで」
 ロブはそう言って桟橋に足を掛けるマリアに向かい厳しい表情で声を掛ける。
「ローアが海に入っているんだ、航路にいないか確認してくれ」
 二人が慌ただしく会話をしながら桟橋を渡りボートに乗り込む背中を見送り、ふとコウは凪いだ海に視線を流した。丁度息継ぎに出たのか、小さな金色の頭がボートのすぐ脇に浮かぶ。気付いたマリアが声を掛け梯子を下ろすと、ローアは素直に梯子を上がりボートに乗り込んだ。かつては、コウがあそこにいた。調査に出る船に乗り込んで、デッキから初めてクジラの群れを見せてもらった。変わっていないと思っていたこの場所もまた、時の流れが残酷に押し流している。
 知れず肩を落として家へ戻ると、コウを空港まで迎えてくれた父はすでに仕事へ出た後だった。近年急速に発展している観光業に転職していた事は定期的に届くメールで知ってはいたが、それもまたコウの胸を圧した。コウの父は元々市場で働いていた。コウが小さい頃は、よく母と手を繋いで市場に父を迎えに行っていた。あの市場の賑わいの中を父を探し歩く時間がコウは好きだった。深い吐息を吐きながらかつて暮らした懐かしい我が家を眺めてみる。微かな面影はあるが、やはり時の流れが無情にも大切な記憶を消し去ってゆく。母が突然死んでから、まるでコウは胸が押し潰されるような不快な痛みを感じていた。二度とは戻らない、全て。未来を見詰めて歩く勇気が、今はなかった。
 日没まではまだ長い。コウは思い立って家を出た。研究所のある西海岸の反対側、東海岸までは、サンクチュアリとして観光客の立ち入りを禁止している島民の居住区から歩いて三十分ほど。空港から家までの車中あまり外を見ていなかったが、東海岸に向かうにつれて辺りの様子は様変わりしていった。あからさまな土産物屋には多国語の看板が客を出迎えており、飲食店が随分と増えた。通りには他国からやってきた人々が人波を作っている。軒先をぼんやりと歩くコウに、中国語で声を掛けてくる店主。自慢の工芸品を手に近付く老婆。七年前は見る事のなかった顔付きに、目頭が熱くなる。観光客向けの大通りをずっと行くとホテルに辿り着いた。今では行事以外では誰も着ていない民族衣装に身を包んだ父が炎天下の車止めに佇んでいる。焼けた顔は、直ぐにコウを見付けてくしゃりと破顔した。
「コウ、どうした。博士たちには会えたのか」
 ちいさく頷くコウの髪を、父の荒れた手が優しく撫でる。
「帰ったらたくさん話をしようね。お父さんはまだお仕事だから、気を付けてお帰り」
 余計な優しさが滲み出す、まるで幼児への言葉。コウはまた頷くと、来た道を素直に引き返す。気を抜けば、止め処ない涙が溢れてしまいそうだった。
 この島が観光に力を入れ始めたのは、数年前のことだそうだ。四方を囲む美しい海は長い時を経て形造られたラグーンがある。あまい空色のラグーンと、コバルトブルーの外海。豊かな珊瑚の森に、豊富なプランクトンを求め外海からも生物が訪れる。そうして生き物たちが鮮やかで豊かな生態系を築いているのだ。またシロナガスクジラがこの海の沖を長年繁殖地として使っている。それ故に、この国にはそう言った人の手の入っていない自然や、美しいバリアリーフ、クジラやイルカを見に多くの観光客が訪れる。その数は年々増え、海洋汚染も問題になっているとは、日本にいる時に故郷の事が気になって調べていた。かつては地元民だけが細々と暮らしていた島。決して裕福ではなかったけれど、夜は深く、波が歌う音がそっと寄り添っていた。まだこの国に帰ってきてたった一日も経っていないのに、コウの胸には早くも重い喪失感だけが低い唸り声を上げていた。
 帰国した次の日も、コウは仕事に出る父を見送るとすぐに研究所へ向かった。その日は桟橋に双眼鏡を手にしたマリアの姿があった。
「おはよう、何をしているの」
 沖を見つめる背中に声を掛けると、赤毛を翻しマリアは驚いたように振り返った。
「おはよう、コウ」
 優しい笑みに促され、コウもまた微笑んで見せる。しかし再び沖へと視線を馳せ、マリアは深いため息を吐いた。
「最近、クジラたちが外海からラグーンへ来る事があるの。シロナガスクジラは繁殖期以外基本的に群れで行動しないはずなのだけど……。まだ繁殖期には早いし、そもそも何故繁殖期の前にここに来るのか分からないの」
「ラグーンに来たら、大変だよね」
「そう、だから最近よく打ち上げられるのよ。まだ餌場の移動にも早いし、それに、あの歌────」
 そこで言葉を途切れさせたマリアの横顔は、ひどく悲しみを帯びているように見え、なんと声をかけていいかわからなかった。不意にマリアは黙り込むコウを振り返る。
「海に入らないの」
 再びなんと答えていいか分からず、曖昧に頷いて見せる。マリアの萎びた手が、そっとコウの肩を抱いた。
「我慢しなくていいのよ、ここでは」
「我慢なんて、していないよ」
 否定しながらもまた胸が圧される。
 日本に住む母方の祖父母には、母の死後父の元へ行く決意を告げた時に、猛反対にあった。元々母と外国人である父の結婚には反対だったとも聞かされた。コウは父も、母も、同じくらいに愛していたし、父を悪く思った事はなかった。母の死に追い討ちをかけ、それがとても辛かった。だからこそ父の助力も得て祖父母の反対を押し切りこの国に来たのだ。元々この国で生まれたのだから言語も国籍も壁はなかった。けれど、街を歩いてみて知った。この国の人にとって自分がよそ者である事。それでもここに来た事を後悔はしていない。ただ、息が苦しい。
 不意にとんとん、と木板のデッキを軽やかに踏む音が後方から近付き、コウは思考の海から顔を上げた。振り向くと、ローアがデッキを駆けてくる。まだぼんやりとした頭で、コウはただその姿を追う。
「あっ」
 思わず声が漏れた。二人が佇む桟橋の突端まで辿り着くや、なんの躊躇もなく、美しい放物線を描き吸い込まれるようにその姿は海へと消えた。ラグーンの空色の中を肩口まで伸びた細い金色の髪が踊るように遠のいてゆく。コウも泳ぎには自信があったが、彼はその比ではない。フィンも履いていないのに、瞬く間に珊瑚の森の中へと消えてしまった。
「ローアは不思議な子なの」
 その姿が消えた先を見詰め、マリアがぽつりと呟く。
「彼はクジラを呼ぶのよ」
「クジラを」
 思わず聞き返す。人が餌付けしていない野生のクジラを呼ぶなんて聞いたこともない。
「そう、ローアが海に入ると、クジラが歌い出すの。長く研究しているけれど、聞いた事もない歌。まるで、彼を呼んでいるみたい────」
 熱い風が頰を打つ。マリアの言葉の意味を探そうとすればする程、真意が遠のいてゆく気がする。
「冗談よ。偶然だわ」
 マリアはそう言って笑った。コウは愛想笑いで答えながら、瞳は海面を彷徨う。彼が海に入ってから既に何分が経っただろう。一向に浮いてこない。シュノーケルもしていなかったし、何処か見えないところで息継ぎをしたのだろうか。だが、コウは広く海を見張っていたはずだ。二人が黙り込んだまま海を眺めていると、桟橋の近くに泡が浮いた。次いで小さな頭が海面に姿を現す。漸く見付けたローアは、息一つ上がっていない。そのまま桟橋の端にかけられた古い梯子を小さな身体が軽やかに上がってくる。コウは驚きに目を瞬かせながら、微かな喜びを胸に感じた。
「泳ぎが上手なんだね。イルカみたいだった。何分息を止めていられるの」
 思わず問い掛ける。しかしローアはその幼さからは掛け離れた気怠げな様子で濡れた髪をかきあげ、ちらとコウに視線を流した。薄いまぶたに半分覆われた瞳は、ラグーンのあまい色ではなく、外海のような鮮やかで冷えた美しいコバルトブルー。その中に水泡に似た煌めきが沈んでいて、やはり呑まれる程に美しい。けれどコウで一瞬留まった瞳はすぐに桟橋へと落ちた。そのままローアは口を開くことなく、とんとん、と木板を鳴らして去ってしまった。痩せた背中を見送り、コウは沖を見詰めるマリアを仰ぐ。
「彼は口が聞けないの」
「そうみたい。よく分からないけれど」
 そう言ってふと、マリアはローアの背中を振り返った。
「ここに連れてきたのも療養なのじゃないかしら」
 海は、自然は、時に人の心を癒してくれる。優しく包み込み、傷口をそっと舐めてくれる。それはコウもよく知っている。あのイルカのような不思議な少年もまた、深い心の傷を抱えているのかと思うと、コウはますますあの瞳に宿る海に引き寄せられてゆく気がした。
 マリアが研究所に戻ってから、コウは砂浜に座り込んで海を見詰めていた。穏やかに寄せては返す波は、いつまで見ていても見飽きない。このまま、この身体ごと海に溶け出してしまいたい。そう思っても、叶わない。マリアが気を遣ってマスクを手渡してくれたことだし、海に入ってみようか。だがやはり、その気になれない。考えてはやめ、また考える。それを繰り返しているうち、ふとコウは人の気配を感じ振り返る。白い砂浜を、ローアがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。まだ濡れた髪は潮風に煽られ、微かに揺れている。
「ローア」
 思わず声を掛けると、ローアはコウで視線を止めた。
「また海へ行くの」
 その問いに返事はない。けれど、彼は真っ直ぐにコウを見詰めている。何を伝えたいのか、その瞳の奥底を覗き込んではみたが、彼の瞳はやはり海と同じ。何も教えてはくれず、何も与えてはくれない。けれど、涙が溢れそうになる。ふ、と視線を逸らし、ローアは海に向かい歩き出した。また泳ぎに行くのだろうか。そう感じ、コウは反射的に立ち上がっていた。
「まって」
 咄嗟に声を掛ける。ローアはちらと横目でコウを見やり、すぐさま波に足を浸した。慌てて追い掛けながら、コウの胸にちらちらと熱が燃える。腰まで浸かる所までゆくと、ローアは徐に海の中へと消えた。真似るように飛び込み、コウは思わず軽く海水を呑んだ。海は慣れたものだと思っていたのに、ローアを見失わまいと逸る気持ちが冷静さを奪ってゆく。それと共に、世界の騒めきが一瞬にして消え、自分の身体の奥底の音だけが深いところから響いてくる感覚を思い出す。漸く海に抱かれたのかと思うと、胸に燃えた柔らかな焔がより赤々と揺らぐ。呑み込んだ海水を吐きに一度海面に顔を出し、深い息継ぎをして、今度は心を鎮め再びコウは頭から海に潜り夢中でローアを追いかけた。やはり速いが、見失う程ではない。それとも、コウに合わせてくれているのだろうか。
 珊瑚の死骸が堆積した真っ白な砂地は、深度が深くなるにつれて姿を変える。沢山の生き物を抱く珊瑚たちが白い砂地との境界線を鮮やかに描く。コウが強く水を蹴るたびに色彩豊かな魚の群れが突然現れた人間を前に散ってゆく。広大なイソギンチャク畑にはクマノミたちが、ハードコーラルにはちいさなスズメダイの仲間や目を凝らさなければ見えない甲殻類が、かつてコウが見たまま、そこで生きていた。限りなく青く澄んだ世界に強い陽光が差込み、波の揺らぎにゆらゆらと煌きを放ち、懐かしさに思わず鼻先が苦くなる。こんなにも変わり果てた世界で、海は何も変わっていない。あの頃のまま、コウを優しく包み込んでくれる。感傷に浸るコウの先、ローアは輝く珊瑚の森をしなやかに下肢をしならせ泳いでゆく。右へ、左へ、目的もなく、時折くるりと回って見せて、まるでローアの周りを泳ぐ魚たちと遊ぶように。その姿は若いイルカと同じ、美しく輝いている。だが、幾ら泳ぎが上手いとはいえ、これ程までに自由に泳げるものなのだろうか。それどころか既に数度息継ぎをしたコウと違い、一度も海面に顔を出していない。何より、彼はコウと違いマスクをしていないのだ。それなのに、まるで陸上と同じように感じる程自在に珊瑚の森を抜けてゆく。一体、彼は何者なのだろう────。そう思った時だった。ラグーンの遥か向こう。外海から、突然轟いたもの。それは幼い頃ロブに聞かせてもらったクジラの声だった。低く伸びてくるその音は鼓膜を震わせ、その震えは全身へと拡がってゆく。地の底からゆっくりと忍び寄るような、深淵の唄声。コウは思わず泳ぐのをやめた。これは一頭のものではない。マリアは冗談だと言ったけれど、あながちそうでもないような気さえしてくる。ふと気付けばローアもまたそこにたたずみ、クジラの声に聴き入っているようだ。水の中でも喋れたら良かった。コウは強くそう思うほど、知りたくてたまらなかった。クジラは何を言っているのか。ローアは、今何を思っているのか。無意識に手を伸ばそうとした所で、コウは息苦しさを覚えた。人間は水中で呼吸する事ができない。そんな事すら忘れる時間は、ほんの一瞬だったに違いない。けれど、まるで悠久の時の中を泳いだような気がした。空気を求め海面へと向かうコウを、不意にローアは振り返った。深い海の色をした瞳は、真っ直ぐにコウを見詰める。深度を深く取りマイナス浮力が働いた瞬間の、あの感覚。深い深い海の底へと音もなく堕ちてゆく、説明のできないあの快感。本能が叫ぶ。誘われている。命の、その先へ────。
 勢いよく海面に顔を出し、コウは必死で澄んだ空気を吸った。流れ落ちた潮水が口に入り、余計に息苦しさを覚える。本能的な荒い呼吸を繰り返しながら、コウの瞳から涙があとからあとから零れ落ちてくる。その理由に、気付かないフリをした。
 苦い海中散歩を終え、コウは海から上がり砂浜に足を落とした。ローアはまだ、クジラの唄を聴いているのだろうか。ふと上げた視線の先、ロブがこちらを見詰めている。
「泳いでいたのか」
 どこか気恥ずかしくなって、コウは俯いたまま不器用に笑って見せる。
「たくさんのクジラが歌っていたよ」
「ローアは」
「分からない。まだ海の中だと思う」
 白んだ瞳がゆっくりと沖へ向かう。コウもまたその先を追いかけ、海中の記憶を思い起こす。
「ローアはイルカみたいだ。凄く綺麗だった」
 ロブは満足そうに頷き、濡れた肩を優しく抱いた。
「明日、久しぶりに外海に出てみるかい」
 その問いに、コウは嬉しくなって元気よく頷いた。
 外海は鮮やかなラグーンとはまるで違う。ラグーンの端の珊瑚からは急激に深くなる。その先は更にドロップオフになっていて、その深さは500mにもなる。そしてその傾斜は2000mの深海に繋がっている。勿論実物を見た事はないが、ロブは人間が到達できない深海についても詳しくコウに教えてくれた。人の目では感知することの出来ない、暗黒の海。恐怖と共に当時コウの胸に芽生えたものは、はげしい焦燥だった。知りたい、見てみたい、人間には許されない、その世界を。海の生き物として生まれなかった事を初めて恨んだのも、その時が初めてだった。
 明日船に乗る約束をして、コウは家へと帰った。今日は様々な事があった。何かが変わる気がして避けていた海に遂に身を委ねた事、変わらぬ美しい生命の煌めき、そして────拒絶されるコウと違い、溶け合うことを許されたあの少年。
 ローアのしなやかな動きを思い出していると、不意に建て付けの悪い扉が軋んだ音をたてて開き、コウは反射的に立ち上がり扉の方へ素早く顔を向けた。仕事から帰宅した父は、コウの姿を見付けるととても嬉しそうに頬を緩める。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 抱き寄せられた身体は、痩せた胸にぶつかった。人の体温は思うよりも熱い事を思い出し、コウもまた父の背に腕を回す。
「髪から海の匂いがする」
「今日はラグーンで泳いだんだ。クジラの歌を聴いたよ」
 父は身体を離すとコウを先程まで座っていた椅子に座らせ、自らもその横に腰を下ろした。握られた手は、やはり熱い。父は昔からいつもコウの話しを全身で聞こうとしてくれる。陽に焼けた頬を弛ませて、この島の人と同じ、大きな瞳で真っ直ぐにこちらを見詰めて。父は優しい人だった。優しすぎたのだと、生前母はよく言っていたが、コウにはまだその真意がよく分からなかった。けれど、そんな父がコウは好きだった。
「ロブの孫が来ているんだよ。イルカみたいに泳ぐんだ」
 海の中の変わらない美しさや、全身に響いたクジラの声、そしてローアの事にまで話しが及ぶと、父はふと表情を曇らせた。
「ウィリアムズ博士に孫……」
 どうしたの、と問うコウの手を離し、父は携帯を触り出す。しばらくすると、やはりそうだと一人納得し、コウに向き直る。
「彼に孫はいないはずだよ。子供がいないから」
 ロブ────ロビンソン・ウィリアムズ博士は、世界的に有名な海洋生物の研究者である。研究に没頭するあまり、生涯を誰と歩む事はなかった。いや、彼は海と、クジラたちと長い人生共に生きる事を選んだのだ。
「何か事情があるのかもしれないね。あまり深く聞いて傷付けてしまわないように、気を付けよう」
 父はそう言ってコウの髪を撫で、夕食を作る為か席を立った。コウは一人、椅子に腰を落としたまま思考だけを浮遊させる。そんな気はしていたのだ。ロブに妻がいた事も聞いていなかったから。だがロブがそうだというのなら、ローアはロブの愛する孫なのだ。それはそれでいい。だがやはり彼は今の自分と似た境遇なのだと感じる。どれだけ大きな喪失をその胸に抱き、海へ向かうのだろう。そう感じた途端、あの金色の髪をした少年の事を、より愛おしく感じた。
 次の日、約束通りコウは父を見送ってから家を出て研究所に向かった。今日も今日とて、風は優しく海は凪いでいる。南国らしくスコールはあるものの、年間降雨量の少ないこの島は、いつでも広い空が広がり海を染めている。日本の狭い空を見るたびに、コウはこの国を思い出していた。健やかな気持ちで辿り着いた桟橋では、既に研究員たちがボートに乗り込む所だった。コウを待っていたのか、マリアがすぐに右手を大きく振る。
「コウ、待っていたわ」
 答えるように右手を振り走り寄るコウの肩を抱き、マリアは腰をかがめて頬を寄せる。四十絡みの彼女からは、化粧の匂いがしない。
「丁度シロナガスクジラが沖にいるの。それも、大きな群れよ」
「本当、楽しみ」
 これまで存在したどんな生物よりも大きい生き物、それが群れているなんて、コウはこれまで見たことがなかった。繁殖期以外単独で行動し、出産はこの地を離れて行なうからと言う理由の他に、この海洋保護区域で繁殖期のシロナガスクジラにみだりに近付くことは基本的には許されない。それはロブが決めた事だった。どんな生き物も、妊娠中はナーバスになる。近年増加傾向にあるとは言え、シロナガスクジラはかつての人間の乱獲により絶滅が危惧されている種。研究だとしても、生き物を刺激しないよう細心の注意を払い短時間で済ませている。そんなロブが、コウは好きだった。胸を躍らせマリアと共にボートに乗り込むと、船首の柵に身体を預け、ローアはじっと優しく揺れる水面を見詰めていた。
「ローア、おはよう」
 横目でちらりとコウを振り返り、深い海の色をした瞳は再び水面へと戻ってしまう。柵の上に組んだ腕に細い顎を乗せ、どこか憂いているかのようなその横顔を潮風が踊らせた金色の髪が撫でてゆく。
「コウ、デッキにいるならこれを着て」
 マリアはそう言うと、オレンジ色のライフジャケットをコウに着せた。近年着用が義務付けられたらしいが、何故かローアは着ていない。コウが不思議に思っているうちにボートはエンジンを吹かし出航した。調査船と言うには小さなボートはラグーンの珊瑚を傷付けないようにゆっくりと進む。すり鉢型のラグーンの壁が一番低い位置を越えると、周囲の色彩はがらりと変わる。甘い色の海は、深い深い青に染まり、ボートがスピードを上げると飛沫が白く濁って跳ね上がる。風を切りながら進む船首は彼の特等席なのか。ローアは変わらずじっと海面を見詰めている。靡く髪が、遮るもののない太陽のしたで煌めいて見える。
 ボートは四十分程進んだところで漸くとまった。この辺りには小さな島もなく、陸は遠く海鳥の姿もない。デッキから海面を覗き込むと、ただただ青く澄んだ海だけが拡がっている。どうやらここは随分と深いようだ。コウが穏やかな水面から目を離した時だった。突然、ボートのほど近い場所で大きな音と共に水柱が吹き上がった。その高さはゆうに八メートルはあるだろうか。コウは思わず口を開けその白い水柱の行方を追う。クジラだ。しかも、これはシロナガスクジラだ────。そう思った瞬間、次から次へとクジラたちはブローを始めた。その音は耳を塞ぎたくなる程のもので、けれどコウはこんなにも間近で何頭ものシロナガスクジラを見るのは初めてだった。一瞬にして頭に血が上り、慌ててデッキの柵から身を乗り出す。
「コウ、気をつけて」
 丁度船室から出てきたのか、背後からマリアにそう声を掛けられても、コウは夢中でクジラの姿を探した。ブローは呼吸と同じ。シロナガスクジラは五十分も潜水していられると聞いた事もあるし、そう何度も出てはこないだろう。だが、まだ息継ぎをしていない個体もいるかもしれない。生返事を返しながら夢中で海面に視線を走らせていると、船室から飛び出した研究員が慌てた様子でマリアを呼んだ。
「マリア、来てくれ」
 分かった、と返し、再びマリアはコウを振り返る。
「あまり柵から身を乗り出さないでね」
 マリアがそれだけ言って船室に戻ろうとした時だった。船首でぼんやりと海面を眺めていたローアが、突然海へと飛び込んだのだ。
「ローア!」
 驚いて叫ぶが、すでにその姿は深い海の中へと消えてしまった。
「まって……!」
 コウは慌てて持ってきていたマスクをつけ、ライフジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま海に飛び込もうとしたものの、マリアの腕がそれを止めた。
「ダメよコウ!」
「どうして」
「ここはドロップオフに沿ってダウンカレントもあるし、深度を少し落とすと潮流が速いの。もしもの事があったらどうするの」
「でも、ローアは……」
 マリアは厳しい瞳で、ゆっくりと首を横に振った。
「あの子は特別なの。あなたはダメ」
 マリアは知っているのだろうか。あの少年の正体を。思考が追い付くより先に、身体は細い柵を乗り越え船を囲むしろいその鉄枠を蹴っていた。背後で悲鳴のように叫ばれた自身の名は、はげしい入水音に掻き消される。今はとにかく、息が続く限り。そう思って周囲にぐるりと視線を走らせたが、まるでコウが追ってくる事を知っていたかのように、ローアは頼るものの何もない水中で佇んでいた。じっとこちらを見詰める瞳は、海と溶け合うようにして微かな光を放っている。やはり彼は器具なくして陸と同じようにものを見る事ができるのだと、コウは漠然と感じた。ローアは自分を待っているのだと察し、コウは息を整える為一度海面に浮上した。すぐさまデッキからマリアの悲鳴が聞こえる。
「コウ、お願いだからこれに掴まって!」
 ロープの付いた浮き輪は、少し離れた所に投げ入れられた。ロブまでも船室から出て、柵から老躯を乗り出してコウの名を呼んでいる。素直に戻るべきだ、それは痛い程に分かっていた。しかしなぜ、誰もローアの心配をしないのだろうか。その違和感は、よりコウを海の底へと引き摺り込む。
「ごめんなさい」
 そう囁いて、ゆっくり深く肺いっぱいに空気を吸い込むと、コウは頭から海に潜り込み力いっぱい水面を蹴った。真っ逆さまに海の底へと沈んでゆくコウの眼前に、ラグーンとはまるで違う景色が拡がる。生き物の姿は薄く、悠々と泳ぐ青魚の群れが人間の姿に驚き去ってゆくばかり。ただただ、震えるほどの澄み切った真っ青な世界。このまま呑み込まれてしまいそうだ。ローアはまるでコウを誘なうかのように、こちらを真っ直ぐ見詰めたままゆっくりと堕ちてゆく。手を伸ばせば触れられそうなのに、強く水をかけば追付そうなのに、それが叶わない。そして高い透明度が水深四十メートル程にあるドロップオフの姿をローアの遥か後方に微かに見せた瞬間の事だった。不意にローアの背後から黒い影が浮かび上がった。驚きに目を見開き、危うく肺に貯めた空気を吐き出してしまいそうになる。おおきい、二十メートルはあるだろうか。音もなく悠然とドロップオフの先に続く深海から現れたクジラは、ローアの側で動きを止めた。そして驚く事に、次から次へとクジラたちが深い海の底からローアの元へと集まり始めたのだ。水中は、全身が震えるほどのクジラたちの声で満ちた。一体何が起きているのか、ローアを中心に巨大なシロナガスクジラが四頭、いやまだいるかもしれない。けれどその巨体はこの広い海を一瞬にして埋め尽くしてしまった。コウを伺うようにゆっくりと忍び寄るクジラたち。深度を落とすにつれ、水温も低くなってゆく。今どのくらい深く潜ったのだろう。帰るまで息は持つのだろうか。ふとコウは身体が震えていることに気付いた。目の前に拡がる自然の大きさに恐怖を覚えたのだ。はっきりとそう自覚した瞬間、突然身体が思いもよらぬ力に引き寄せられ、深い海の底へと吸い込まれてゆく。それがダウンカレントだと気付くまでに一瞬の間を要したが、コウは半ばパニックになり肺に溜めた空気を吐き出してしまった。慌てて頭を上に戻してはみたが、遥か頭上の太陽は遠く、波に揺れ霞んでいる。相変わらず歌い続けるクジラたち、そして、恐ろしくなって見下ろした先。深い深い海を宿した瞳が、静かにコウを見詰めていた。問われている心地がした。このまま本能に身を任せ空気を求めるか、それとも、見ないフリをした欲望のまま、堕ちてゆきたいか。
 気付けば、無我夢中で水面を目指していた。苦しい、苦しい、苦しい、怖い────。だがもがいてももがいても深淵へと引き摺り込まれてゆく。父の顔が脳裏に浮かび、次いでロブが、マリアが、コウを生に縛り付ける。戻らなくては、なんとしても。けれど、もう息が持たない。進むこともできない。未だ微かに燃えるちいさな命が海に抱かれ、冷たくなってゆく。焦れば焦るほど水を呑み、体内の空気は失せた。次第に意識は遠退き、コウは静かに深い海の底へと墜ちてゆく。クジラたちが、遥か遠くで唄う声を聴きながら。思考が途切れる刹那、コウは確かに感じた。心はこれを求めていたはずだ。海へと還る為にこの国に来たのだ、と。
 幼い頃、全ての命は海から産まれたのだと母は寝物語に教えてくれた。そして、海へと還ってゆくのだと。母は海を愛していた。だからこの国に来て、父と出逢った。コウは幸せだった。母がいて、父がいて、いつでも命の揺り籠である海が傍らに寄り添っていたから。けれど、その母は自ら命を絶った。母の望み通り、遺骨は海へと還した。粉々になったしろい骨が風に乗りやがて静かに海に吸い込まれる様を見て、コウは漸く母の死を実感し葬式でも流さなかった涙を流した。母が本当に遠退いてゆく。そんな気がしたのだ。溶けてゆく骨に向かい、お母さん、そう何度も叫んだ。海は何も答えてはくれなかった。母と言うかけがえのない存在の喪失は、コウの胸に大きな穴だけを残した。それはまるで底の見えない深海。全てが呑み込まれてゆく。未来も、生きる力も、何もかも。母と共に逝きたかった。海へと還った母の側に行きたい────。
 ふと深く沈み込んだ思考が急浮上を始め、うっすらと瞼を開くと、目の前に見慣れた白髭の老人の顔があった。
「コウ、気が付いたか」
 何が起こったのか分からず、コウはゆっくりと身を起こし辺りを見回した。ロブの傍らに座り込んだマリアが、声を上げて泣いている。どうやら船の上のようだ。
「良かった……レスキューに状況を説明している時に、ローアが君を連れ戻してくれたんだ」
「ローアが」
 掠れた声で問うて、コウは引き摺り込まれるような強烈な感覚を思い出す。あの強い流れの中を、どうやって。再び周囲を見回すと、ローアは船首の柵にもたれ、じっと海面を目詰めていた。どれくらい経ったのか分からないが、何事もなかったかのような変わらぬその姿に、コウは恐怖さえ覚えた。彼はやはり、普通ではない。彼の胸の奥底に自分と同じものを感じていたはずなのに、きっとそれはまるで見当違いだったのだ。何故海の底へと導いたのか。それなのに、何故消えゆくはずの命を掬い上げたのか。青い瞳を思い出し、コウは漠然とした疑問を胸に抱く。彼は一体、何を伝えたかったのだろう。考えれば考えるほど、思考は絡まり合ってしまう。呆然とするコウの肩を優しく撫でながら、ロブは研究員にちいさく頷いて見せた。
「船を出してくれ」
 周囲に集まっていた研究員たちが帰港の為に動き出す中、ロブだけは心配そうに付き添ってくれていた。コウは慎重にロブの傷んだ顔を見上げる。
「ロブ。ローアは一体、何者なの」
 その問いに、ロブは微かに瞳を細め、コウの濡れた髪をゆっくりとその萎びた手で撫でた。
「海の中で、あの唄を聴いたか」
 それがクジラの唄であると察し、ちいさく頷いて見せる。
「クジラはローアと会話しているのだ」
「クジラと、人が」
「皆には言っていないが、私はそう思っている。彼らは唄っているのだ。ローアと共に、海の唄を」
 研究者の口から出た言葉とはとても思えない。だが第一人者が混乱してしまう、それだけ不可解でこれまでなかった行動なのだろう。
 それきり誰とも口を聞かず、コウはローアを見詰めていた。何事もなかったかのように、彼はただ閑かだった。やがて研究所のある浜に近付くと、桟橋には既に父が迎えに来ていた。民族衣装に身を包んでいるところを見ると、仕事中なのに駆け付けてくれたようだ。桟橋に船が止まり下船すると、父は慌てたように駆け寄った。陽に焼けた顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。
「身体はどこも痛くないか」
 この島に日本のような大きな病院はない。未だ医療は脆弱で、日本では治る病や怪我で命は失われてゆく。だからか、父は昔からとても心配性だった。コウの身体に異常がない事を知ると、父はロブや目を赤く腫らしたマリアに深々と頭を下げ、コウの手を引いて歩き出す。触れた肌の荒い感覚、熱すぎる体温は、父の命と共に脈打っている。手を引かれるままぼんやりと歩いていると、父は静かに口を開いた。
「コウ、何故博士たちの言葉を聞かなかった。海は決して我々に優しいものではないんだよ。甘く見てはいけない」
 分かっているつもりだった。カレントに嵌ったのは初めてだったがその対処法もかつて教えてもらっていたのに、空気を求めるがあまり流れに逆らうと言う一番とってはならない行動を取ってしまったのだ。それは父の言う通り、ラグーンの優しい海に慣れきって慢心していたからに違いない。
「もう調査船に乗る事を許可できない」
 父は続けてそう言うと、きつく唇を噛みしめる。
「海にも、しばらく入ってはいけない」
 愚かだった事は素直に謝ったが、コウは必死で父に縋った。
「ラグーンならばいいでしょう」
「ラグーンだとしても、危険はあるんだ。コウは海の事を何も知らない」
 コウを見下ろす厳しい瞳は、さまざまな色が混ざり合い揺れている。それ以上コウは反抗してはいけない事を悟り、けれどせめてもと曖昧に頷いた。
 海へ行く事が禁じられてから、コウは一日中家で過ごすようになった。思い出すものは、海の事ばかり。抜け切った青空を開け放たれた窓から眺める時も、潮風の匂いが鼻先に踊った時も、そして、夢の中でも。
 そんな日々を繰り返し、五日ほど経った深夜の事だった。沈み込んだ意識の底、遥か遠く、深い海から響く唄が聞こえる。博士の言ったクジラたちの、海の唄。何故か呼ばれている気がして重い瞼を開く。隣で眠る父はいびきをかいていて、少しの事では起きそうにない。慎重にベッドから抜け出し、コウは足音を忍ばせ玄関の扉を開いた。そしてあまりの驚きに息を詰める。澄んだ青い瞳、細い金色の髪、痩せた身体────ローアがそこに立っていたのだ。
「ローア」
 コウの呼び掛けに返事をせずローアは歩き出した。慌ててその後を追いながら、コウは冷たい横顔に必死で言葉を投げた。
「助けてくれてありがとう」
 それが本心なのかは正直分からないが、あの時確かにコウは自らの命を繋ぐ為にもがいていた。それをローアは察して助けてくれたのだろう。ふと気付く。だとすれば、ローアがコウを海の底へと誘おうとした理由は、コウがそれをあの時は心の底から望んでいたからではないだろうか。願望と本能のせめぎ合いを敏感に感じ、ローアは手を引いているのではないか。そこへ辿り着き、コウは身を震わせた。
「君は、どこからきたの」
 その問いの返事が帰ってくる事がないと分かっている。けれど問わずにはいられなかった。ローアは歩き続ける。研究所のある西海岸とは真逆の方へ。観光客も眠りについた大通りは、まるで死んだ街のようだ。広い空一面に散りばめられた星々も、不吉に瞬いている。
「どこへ行くの」
 心臓が大袈裟に胸を叩く。この先に待ち受ける何かがコウを微かな恐怖と期待で呑み込んでゆく。酷く喉が乾く。息も上がる。一体、今自分は何を求めているのだろう。やがてローアが足を止めた場所は、観光客向けに開放された東海岸のビーチだった。この島の人々が早朝と夕暮れに掃除をしていると父が言った通り、ビーチにはゴミの一つも見当たらない。変わらぬ美しい海がそこにはあった。ローアは波打ち際に素足を浸し、深い闇夜に呑まれた海を見詰めている。月明かりだけがその横顔を照らし、美しい海の色をした瞳を輝かせている。
「ローア」
 胸を圧し上げた衝動が、言葉となってこぼれてゆく。
「僕も、海へ帰りたい」
 溢れた涙が頬を滑って落ちた。砂浜の色に似た指先がそっとコウの手を取る。促されるままに歩き出す。サンダルの爪先が波に触れ、また一歩踏み出す。次第に足は重くなり、水に濡れた服が纏わり付く。それでもローアに手を引かれるまま、コウは進み続けた。その先に、何かがあると信じて。腰までの深さまでくると、ローアはコウの手を離し泳ぎ始める。マスクはないが、躊躇している場合ではなかった。頭から海に飛び込み、恐る恐る瞼を開く。やはり視界は濁り、人間が海から拒絶されているような心地になる。けれど暗く滲んだ世界で必死にローアの姿を探していると、不意にぼやけていた視界がローアを中心に開てゆく。コウは驚きに思わず息を吐き出してしまった。空気を求め顔を上げようとしたが、何故だろう、息が出来る。ここは水中のはずなのに。驚きに静止したコウを、ローアはまっすぐに見詰めている。月明かりだけの頼りない世界の中、彼だけが輝いてみえる。これは夢なのか。そう疑い出した時、沖からクジラたちの唄が聴こえてきた。それはまるで、コウを歓迎するように全身を包み込んでゆく。泳ぎ出したローアを追って水を蹴る。あれほど重かった身体がまるで浮いているかのようだ。やはりこれは夢なのだ。ならば恐れる必要はない。再び泳ぎ出したローアの後を、コウは夢中で追い掛けた。海と溶け合っている、その実感だけを胸に。
 沖へと進んでいたローアは、砂地と珊瑚礁の境界線で動きを止め、そっと砂地に降り立った。コウもまたその隣に着底し、視線の先を追い掛ける。踏み付けられた珊瑚が白くなって転がっていた。観光客が珊瑚を折って殺してしまう事は、この島だけの悲劇ではない。ふと気付けば、辺りの珊瑚は白くなっているものも多い。珊瑚が窒息し死んでしまうことから日焼け止めが禁止されている国や地域もあるが、ここはまだ発展途上。なんの制限もない。美しい珊瑚やそこに息衝く生き物たちを目当てにやってくる人間は、知らずその命を奪っているのだ。言葉にならない切なさを噛んでいると、ローアは死んだ珊瑚を拾い上げ、やさしく両の掌で包み込んだ。するとその掌の中で柔らかな光が生まれ、ちらちらと揺れ始める。ゆっくりと開かれた手の中から飛び立つ細かな光の粒は、静かに海へ溶けてゆく。ローアは目にした珊瑚の死骸をそっと掌で包み込み、そして海へ放ってゆく。次から次へと旅立つ光が優しい波に揺らぎ散り散りになって消える様は、まるで母が海へと還った時と同じようだった。瞼の裏が熱くなり、目頭が鈍く痛む。けれど涙は全て、海が呑み込んでゆく。
 母の後を追いたいと願う事を、後ろめたく感じていた。生きる事ばかりが正しいのだと信じていた。自分を置いて命を絶った母の気持ちが分からず、それ故に死を願う事自体を罪と信じ、見ないフリをしていた。けれど命は必ずいつか終わりを迎える。それが突然だとしても、長い長い時の末だったとしても。無残にも奪われた命を悲観する訳でもなく、嘆く訳でもなく、怒りに震える訳でもなく、ただただ見送るローアの瞳を見詰めながら、コウは母の笑みを思い出していた。母はこの珊瑚たちと同じように、光の粒となって海へと溶けたのだ。幸福な過去に縋るばかりで現実が悲劇だと思い込んでいた。けれどそれが母の願いであり、母の命の終わりは、とても幸福だったに違いない。コウは海へと溶けてゆく光の粒を見送りながら、深く息を吸い込み、漠然と一度は失った未来を見詰めた。いつか、海へと還るその日まで、この海と共に生きて行こう。胸に空いた大きな穴が、優しく抱かれゆっくりと満ちてゆく心地がした。
 唄が聴こえる。命の始まりと終わりを謳う、海の唄が────。





Recycle

こちらは創作BL小説置き場です。 ご理解ある方のみお楽しみください。 一部の作品にはR指定をしておりますので 十八歳未満の方はご遠慮下さい。 尚、作品傾向につきましてはprofileをご一読下さいませ。

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