山奥のマヌーシュ


「驚いたな。一段と上手くなった」
 愉しげに掻き鳴らされるギターの音色を縫って、隣からは感嘆が漏れた。
「表情も出てきたし、随分といい男になったじゃないか。これも良い相棒がいるからか」
 そう言って肩をぶつける町田に、陽は肩頬だけを吊り上げた歪な笑みを返す。

 郊外のキャンプ場に組まれた小さな特設ステージの客席で、ギター四本とコントラバス、それにアコーディオンとバイオリンを加えた贅沢なセッション。聖月は相変わらず視線を指先に落として俯いてはいるが、時折絶賛ソロ演奏中の元相棒であるバイオリニスト、嶋田の演奏に微かな微笑みを浮かべる。たしかに甘ったるいばかりでどこか一歩引いたような控えめな演奏だった筈が、いつの間にかそれも様変わりしていた。
「嶋田さんも、随分吹っ切れましたね」
 聖月と別れた事が功を奏したのか。はたまた新たな恋人でもできて、その相手が嶋田を変えたのか。理由は知らないが、面白くはない。それがあからさまに顔に出ていたようで、火を起こす為の薪を片手に町田は大袈裟に吹き出した。
「変わらないな、陽は」

 復帰してから、パリを拠点に活動を続け一年。聖月の名は既にマヌーシュジャズ界隈に轟いていた。今までどこに隠れていたのだという驚愕の声や、幼い頃を知っていると無意味に自慢する声を聞くたび、陽は誇らしく思うと共に酷く苛立った。
 確かに元々天才的だった聖月は、最近より深みのある演奏をするようになった。誰もが絶賛し、賞賛する。それを誇らしくは思うが、だからこそもう二度と誰にも渡したくはないと言う不思議な独占欲が陽を苦しめていた。これからは陽を抜きに呼ばれる事も増えるだろう。陽だけが呼ばれる事は既にあるのだから、お互い様なのだが────。
「強い酒がいるか」
 軽い目配せとともに、町田はウォッカの瓶をぶら下げてほくそ笑んでいる。悔しい思いもするが、酔いに任せて呑み込んだ方がいい。
「いただきます」

 今日は日本でマヌーシュジャズの普及を目的に活動する町田の知り合いであるギタリストに呼ばれ、キャンプ場で行われるマヌーシュジャズの野外フェスに出演する為二人は久しぶりに来日していた。主催者側は町田の懇意の間柄とは言え当然界隈を震撼させる二人へのオファーにかなり消極的だったようだが、半分日本人の血を持ち、数年この国で生活していた二人にとって日本は遠い国ではない。故郷は勿論フランスではあるが、第二の故郷は日本なのだ。
 聖月と陽の参加がかなり早くに決まった事で、チケット代わりのキャンプ場の予約は即完売。主催者側は大喜びではあったのだが、後々決まったバンドの面々を見て陽は眉を顰めた。何を隠そう、嶋田が新しく加入したバンドも参加する事になったのだ。ライブは一組目が四時からで、それまで好きに行動して良いのだが、真面目に昼食の為の火を起こす陽の背後では嶋田をはじめ他のミュージシャンも聖月に夢中。それが全く面白くはない。

 苛立ちを全力で火起こしにぶつける陽の肩が不意に叩かれ意識を戻す。背後で奏でられる音楽はギターのみのセッションへと移り変わっていた。
「陽くん、かわるよ。皆君の演奏も聴きたいんだよ」
 そう言って陽の背後で薪を手に微笑んでいたものは、嶋田であった。何処か浮かれた顔付きにまた苛立つ。
「そうですか。俺にはそうは思えませんけど」
 皆ロマの血筋を引くあの奇跡的な才能を前に骨抜きにされている。加えて少し和らいだとはいえ相変わらず近寄り難く気難しい性質を存分に持ちながら、よくよく見れば草臥れたキャップの下に隠れるどこか影を帯びた美貌。いや、見てくれなどそんなものはどうでも良いのだが、最近より魅力的な男になってゆく相棒を前に、陽は気が気ではないのだ。
「変わらないなあ、君は」
 そんな陽を嶋田は呆れたように笑い飛ばした。
「それに比べて聖月は随分と変わったね。あんな柔らかい表情を見せるなんて。悔しいけれどやはり、君の手の中にいる事が彼にとって一番なんだね」
 その言葉を陽は鼻で笑い飛ばした。
「あいつが俺の手の中になんかいるものか」
 勢い良く燃えた木が弾け、瞬間的な高い悲鳴を上げる。はげしく揺れる炎を見詰めながら、陽は溜息を噛み殺した。
 いつでもそうだ。聖月が陽を求め追い掛けられている気がするのに、気付けば陽が焦がれている。誰よりあの男に相応しいものは自分だと言う揺るぎない自信があればこそ、聖月もそう感じてくれている確証ばかりを欲してしまう。聖月を囲む人々の歓声を背に、やはり苛立ちと虚しさが胸を圧していた。

 そうしているうちに、あっという間にライブの時間となった。アウトドアチェアを五十脚程並べただけの客席は、今か今かとその時を待つ人々で埋まり、その誰もが弾んだ顔をしている。
 最初のバンドは少し風変わりなバンドだった。マカフェリタイプのギターが二本とコントラバス、そしてボーカルの四人組で、コミックソング調の曲が多い。ギターの青年は、先程聖月の演奏を熱心に見詰めていた一人だ。たしかに陽からすれば技術はまだまだ拙いが、とても真摯に音楽と向き合っている印象を受けた。嫌いではない。
 二組目が嶋田のバンド。こちらはオーソドックスなマヌーシュジャズを真面目にやっているバンドだった。ギター一本とコントラバス、それにバイオリンとアコーディオンと言う編成で、洒落ていながら砕けた緩さのある嶋田にとてもよくあっていると感じた。
 二人の出番は勿論と言うべきか大トリではあるのだが、そもそも日本でマヌーシュジャズをやっているバンドは多くはなく、大トリと言っても四組目。演奏自体も三十分程の予定である。それまでは客席でほかのバンドの演奏を聴いたり、最終調整をしたり、自由だ。二人は出番まで各々適当に過ごした。

 そして予定より三十分押して、陽がどっぷりと暮れ落ちた頃二人の順番となった。陽自身で椅子やマイクをセッティングし、直ぐに演奏、とはいかないもので。今回は音響機器を使うためサウンドチェックをしなければならない。
 それでもものの数分で陽がバイオリンの調整を終わらせた頃を見計らい、聖月がギターを持って小さなステージに上がった。相変わらず目深にキャップをかぶり、口元には煙草。野外フェスとは言え近年喫煙への風当たりの強さ故にいかがなものかとも思ったが、演奏を今か今かと待ちわびる客の反応を見るに、あまり気にはならないようだ。
「聖月、少し弾いてくれ」
 最近それなりのキャパシティのホールでやる事もあり、生音ではなくマイクを使う事も増えたが、聖月はそもそも音響機器を殆ど使った事がない為、基本的に陽の言うまま、するがまま。全て任せ切っている。
「ハイを少し切ってくれますか」
 言う通り軽く弾きながらもステージ脇の音響スタッフと細かな調整をする陽を視線で追う聖月は、まるでまだ幼かった頃のようだ。
「どうだ。少し硬いか」
「いや、悪くない」
 フランス語で交わされる二人の会話など分かるものは少ないだろうが、そんな単なるサウンドチェックすら、聴衆はうっとりとした面持ちで熱い視線を送っている。

 サウンドチェックも終わり、ハの字型にセッティングした椅子に腰を下ろす。コンビの場合、バイオリンもリズムに回る為バイオリニストのセンスと腕が試される。陽が日本で活躍していた頃は基本的にジャズばかりで、マヌーシュジャズのイメージは薄い。嶋田の言う通り、聖月ばかりではなく、たしかにそんな陽の演奏にも聴衆が期待している事はその顔付きでよくよく身に染みた。
 MCなども挟まず、一瞬視線を合わせ、二人は徐に演奏を始めた。一曲目はジャズの名曲『take five』。客席から沸き起こった大歓声が山にこだまし、聖月は微かに口元を綻ばせた。純粋に音楽を楽しむ────それが今回のイベントの目的である。かつて日本にいた頃は見る事の出来なかった聖月の心底嬉しそうな微笑。幼い頃のような、純潔な喜びだけがそこにはあった。それが何より陽の胸を叩き、未来への希望を齎してくれる。
 モダンジャズから歌謡曲、メジャーな民族音楽まで、日本人になるべく馴染みのあるものを選曲した。どこか踏み込みづらさを持つマヌーシュジャズとは、もっと身近で、もっとフランクで、もっと命に密接したものなのだと知ってほしいと二人で考えた選曲だった。
 アンコール含め八曲を終える頃には五月の山中の肌寒さなど誰もが忘れ、辺りには熱気が満ちていた。喝采を浴びながら、陽は愛想も無く煙草に火を付ける横顔を見詰め浅い息を吐いた。

 その後は予想通りと言うべきか。他のバンドの面々や、イベントの参加者に囲まれ食事どころではなく、勿論陽も絶賛されはしたが、やはり誰もがジャンゴと同じく小指と薬指に障害を持つ聖月がどうやってあれだけの演奏が出来るのかが気になるようだ。とは言え主催者が二人に休憩をと気を回してくれて、二人は一度充てがわれたロッヂへと戻った。
「さすがに腹が減ったな」
 そう言いながら備え付けの冷蔵庫を物色する痩せた背中に、陽は思わず燻る胸のうちをぶつけた。
「随分と楽しそうだったな。気に入った奴でもいたか」
 スレていた頃は突っぱねていたかも知れないが、基本的に聖月は音楽を楽しもうとする姿勢がある人間ならば下手かろうが上手かろうが関係はない。聞かれたら答え、セッションがしたいと熱望されたら答えてやる。今日はそれが分かっていても、聖月が浮かれている気がした。
「嶋田さんがいたからか」
 ここに来る道すがら運転のお供に買ったチョコレートを頬張りながら、聖月はしたり顔で振り返る。
「ああ、変わったな。良い演奏をするようになった。昔からあれ程の腕だったなら、俺もおまえに固執する事もなかっただろうな」
 その言葉に、陽は目を見開き耳を疑った。唯一無二の存在だと言う相変わらずの自惚れは、やはり陽のプライドばかりを切り裂いてゆく。
「また下らない事を考えているのか」
 頰で甘いチョコレートを溶かしながら吐き捨てられた聖月のその呆れた口調に、陽は奥歯を噛みしめる。
「いつでもそうだ。おまえはそうやって、俺を弄んで楽しんで。俺が誰と付き合っても良いと言うし、俺がソロで呼ばれても聴きにこないし」
 聖月がソロで呼ばれる際は、必ず聴きに行っている。それは陽がマネージャーのような側面も持っているからなのだが、それ以上に、やはり聖月の音楽が好きなのだ。けれど聖月は陽がソロで呼ばれた時に一度も聴きに来た試しがない。興味があれば来るはずだ。やはり、片想いなのだろうかと考えてしまう。
 飽きもせず深い嫉妬に呑まれ俯く陽の目の前に歩み寄り、聖月はこれ見よがしなため息を吐いた。
「何故理解出来ないんだ。誰と付き合おうが、誰を愛そうが、おまえの勝手だ。結婚したいならすればいい。俺は心から祝福する」
 だがな────そう続けて、聖月は惚ける陽の襟を乱暴に引き寄せた。
「おまえは誰にもやらない」
 見開いた瞳の中心で、黒髪が翻る。
「ほら、これからキャンプファイヤーをやるんだろう。早くしろ、夜は長いぞ」
 柔らかな微笑を残し、聖月はロッヂを後にした。木造りの扉を見詰めながら、陽は必死に奥歯を噛み締めた。気を抜けば頬が緩んでだらしない顔を晒してしまう。誰も見ていないと言うのに、何度も何度も湧き上がる歓喜を噛み殺した。

 扉の外からギターの音色が聞こえてくる。人々の感嘆が咲き誇る中に、聖月がいる。それが陽の望んでいた景色。けれどいつからか、その隣に自分がいない事を恨んでしまうようになった。下らない────確かにそうかも知れない。
 聖月が誰と演奏しても、誰を褒め称えても、やはり陽と共に演奏している時のような顔を見せる事はない。全てを開け放ったあの眩そうな瞳。愉しげに弛む頬。言葉の少ないあの男の、それが精一杯の表現だ。いや、それが最大級なのだ。この先また言葉で欲しくなる事もあるだろう。その度に、聖月はこうして自覚させてくれるのかも知れない。

 燃え上がる火を囲み、それぞれの音を重ね合わせて夜は更けてゆく。日本でもパリでも、人々はこの音楽に触れるととても愉しそうに笑う。息を吸うのと同じように、音が満ちている。これがそんな音楽だからこそ、例え爆発的に大衆の人気を勝ち取ることは出来ずとも、心の奥底に燃えていて欲しいと陽は願った。
 パリから遠く離れたジプシーのいない国、日本。それでもマヌーシュジャズを愛する人々がこうして集まり純粋に歓びを分かち合う姿に、陽は言葉にできぬ幸福を覚えていた。



Recycle

こちらは創作BL小説置き場です。 ご理解ある方のみお楽しみください。 一部の作品にはR指定をしておりますので 十八歳未満の方はご遠慮下さい。 尚、作品傾向につきましてはprofileをご一読下さいませ。

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