月の調べ
モンマルトルの夜が更けて、街は観光地から微かに顔色を変える。道端では女が男の袖を引き、安い金で身体を売って。バーの外では馬鹿騒ぎの若者が、道行く女を値踏みしている。
陽が眠り込んだ隙にアパートを抜け出した聖月は、煙草を咥えた口元から起用に舌打ちだけを投げた。
「今日は随分とうるさいな」
その隣で同じように煙草を咥えるルイは、冷たい空気から逃れるようにジャケットの前を掻きよせた。
「試合が盛り上がったからなあ。何か飲むか」
「酒はいいから煙草は奢れよ」
いつもルイとやっている賭け事に今日は久しぶりに勝てたのだ。サッカーの試合で何枚イエローカードが出るかを賭けるのだが、ルイの予想は的確で、単なる当てずっぽうの聖月とは違い自分なりのデータがあるらしい。警察の世話にはなるし、直ぐに手を挙げる堕落した男だが、聖月は彼の頭の良さにいつも感心していた。
ふと適当な会話を楽しむ聖月の肩を叩く者があった。驚いて飛び跳ねるように振り向くと、何のことはない、知り合いの男が派手な女を侍らせて立っていた。
「ようミミ。随分と評判だぞ」
そう言ってギターを弾く仕草をする男の隣、随分と酔っ払った女が甲高い声を上げる。
「ねえ、あんたの相棒紹介してよ。アタシが美味しく食べてあげる」
下品な言葉に思わず聖月は鼻に皺を寄せた。
「あれはアル中女に紹介するような男じゃない」
するにしても、日本にいた頃結婚まで考えていたあのお嬢様くらいでないと釣り合わない。女の批難の声を背中に、不機嫌になった聖月は大股で通りを抜けた。
通い慣れたルイの部屋は薄汚れたアパートの一室で、周囲も同じようなゴロツキばかりだからか、パリと聞いてもあまりピンと来ないような場所だ。けれど華やかなイメージを持つパリには、このような所謂スラム街は点在している。
部屋に着くなり起きているときはソファがわりとなるベッドに身を投げる聖月を、ルイは呆れたように目で追った。
「なんだよ、機嫌を直せ」
別に悪くなった覚えはないが、だからと言って良い気もしない。返事もせず、煙草に火をつけようとした所で不意にルイは聖月の帽子を脱がせた。
「帽子を取ったらどうだ。おまえだって、ハンサムに負けちゃいない」
そう言いながらも、ルイは聖月の左眼のうえをゆっくりとささくれ立った親指でなぞった。
「顔面よりも、傷が目に付くだろう。気持ちのいいものでもない」
「そうかねえ、俺は好きだが」
それはこの男が物好きなうえに嗜虐趣味を持っているからだ。
「ところで俺を切らないってことは、ハンサムとは本当に付き合ってやらないのか」
その問いに聖月は低い返事を返す。最近では諦めたのか、陽も前ほど付き合いたいだの抱きたいだの触れたいだの下らない事を言わなくなって来た。
「おまえじゃ勃たないのか」
「いいや、ガキみたいに反応しているよ」
言いながら身を起こしルイの顔を見上げ、頬骨から顎先へ指を這わせながら、下唇を舐め上げる。
「こうやって、煽ってやるだけでな」
あれ程女に苦労した試しがないくせに、陽はまるで初心な少女のような反応を見せる。遊ぶと言う感覚を知らないのか、自負している通り、心から愛した女以外相手にしてこなかったのか。どちらにしても、あれだけの美貌を持っていながら陽は聖月には目が潰れる程純粋すぎる。
かたや目の前の男は爛れた性生活の所為か、陽とは真逆で相変わらず余裕な笑みを口元に浮かべている。
「それで、どうするんだ」
「気付かないフリをする。あいつ、俺に隠れてトイレで抜くんだ」
何食わぬ顔でバスルームに消える背中を思い出し、思わずふ、とちいさな笑いが漏れた。
「健気だろう。そこが可愛いんだよ」
ふうん、と低く唸り、節が立ったふとい指が雑に纏めた髪を解く。はらりと落ちた長い前髪が瞼に触れ、聖月は淀む瞳を見上げた。
痩せた身体に乱暴に跨って押し倒し、ルイは値踏みするように聖月を見下ろす。この動物的な視線。舌舐めずりをする捕食者の暗い輝きが、陽にはない。
「押し倒しゃあこんなに簡単なのにな」
「おまえと違って育ちが良いんだ。そんな不粋な真似絶対にしない」
ルイは低く笑うと、薄いシャツのボタンを弾いた。
「一生そうやってお預けか」
「さあな」
そう言っておきながら、陽との関係が変わることがない自信があった。
「可哀想になあ。あれだけ顔が良けりゃ苦労なんて無縁だろうに、とんでもない男に惚れたもんだ」
独り言のように呟きながら雑にシャツを脱ぎ捨てる男を仰ぎながら、聖月は鋭い瞳を細め鼻に皺を寄せる。
「陽に手を出すなよ」
ルイはにやりと口端を持ち上げ、満更でもないような顔で低く笑った。余りにも唐突に硬い歯が肩に喰い込む。低く唸りながら、聖月は腰元に掘られたタトゥーを撫でる指先に遥か遠い記憶を呼び起こしていた。
惚れた腫れたの感覚が自分にないことに気付いたのは、もう随分と昔の事だ。初めて関係を持った男は、家出をした十七歳の頃に出逢った彫り師だった。その男はギター一本で飛び出した聖月が潜り込んだちいさなジャズバーの客だった。肌に異様な執着を持ってはいたが、人間的に聖月を好いていたかは分からない。だがそれで良かった。ルイにしても、誰にしても、単純にウマが合い、都合の良い時に動物的な性欲を満たす存在である。それ以上でも以下でもなく、互いにそう言う認識の元で関係を続けている。
けれど陽がパリを離れ、母の元から飛び出してから享楽に溺れる中でも聖月の心には常にあの暖かな光が生きていた。誰にも侵すことの出来ない、何があっても消えない、余りにも眩い太陽の光が────。
その日は散々夜を愉しんだ。そしていつも通り朝に帰り、眠る気にもなれず聖月はソファでギターを弾いていた。長閑な昼下がり、掃除機の音が近付いては遠退いてゆく。時折ローラーが床を転がる音が暫く止まり、そしてまたごろごろと耳障りな騒音が始まる。雑音が不快で、聖月は抱えていたギターを置いた。
また手を止めた陽に視線を投げると、携帯を手に何やら微笑んでいる。訝しげな視線に気付いた陽はふと顔を上げ、聖月に向かい美しい笑みを投げた。
「町田さんが、是非いつか『Roma』で弾いて欲しいと」
メールの画面を見せながら嬉しそうに投げられた言葉に、聖月はふとあの優しい男を思い出す。
「恭平にも久しぶりに会いたいな」
どう思っていたか知らないが、嶋田もまた聖月にとってはルイと同じ。勿論バイオリンの腕を買っていた訳でもない。けれど陽は何を思ったか、苦々しく眉を顰めた。
「おまえは本当に……」
「なんだ」
「べつに」
そう言いつつも、また何時もの嫉妬が美しい瞳の奥で揺れている。
「俺が、紗綾に会いたいと言ったらどう思うんだ」
「どうも思わない」
良い女だった。結婚すれば良かったのに、と時折思う程陽には似合っていた。
不機嫌そうに視線を逸らし掃除機のノズルを見詰める横顔が余りにも美しく、聖月は煙草に伸ばした手をそっと引いた。透き通る白い肌、真っ直ぐな睫毛を震わせ、憂う美青年。こんな男に拘るなど勿体ないと、何度目か胸の内で呟く。
「嶋田さんの事は、愛していたのか」
「本当におまえは拘るな。それしか頭にないのか」
相変わらず不服そうな陽を前に、聖月は浅い溜息を吐いた。
一度置いたギターを構え、挑発するように睨め付ける。
「陽、うるさい掃除機を止めてこっちへ来いよ」
聖月の言葉に揺らぐ瞳がやはり余りにも純真で、眩しくて堪らない。そんな顔をするな、と言葉に出さず吐き捨てて、弦を弾く。セルマーの深い響きが狭いアパートに拡がってゆく。ぐっとくちびるを噛み締めてから、陽は掃除機を止めた。
「感じないか」
これ程までに陽を求め、これ程までに焦がれている。
「そんなもの、言葉で言えよ」
言葉に出来るのならば苦労はしない。そう思いながら、聖月は小さく笑った。
昔から聖月にとって陽は特別な存在だった。恋ではない。性愛でもない。愛という物を語る資格があるのかは分からないけれど、いつか陽が愛する人を見付けた時には心から祝福する事だろう。その相手は自分ではない。誰でもいい。陽が心から幸福に生きられるのならば、男でも、女でも。
「聖月────」
縋るように囁く声から逃れ、聖月は薄く微笑んで見せる。
「ほら、バイオリンを持て」
少し寂しそうに微笑んで、陽はバイオリンを構えた。陽が奏でるバイオリンの音色は、いつでも聖月の胸をはげしく掻き乱す。幾ら足掻こうとも、惹きこまれまいと誓おうとも、いとも容易く深潭の扉を開いてゆく。
この想いは、信仰に良く似ているものだと聖月は感じた。御堂に閉じ込めた神聖な光、決して踏み込んではならない聖域。踏み込めば眩い光に焼き尽くされ、灰さえも残らないだろう。それでは困る。永遠に歩んで行きたいのだ。陽と共に、音楽の中で。今更望むものは、それだけだった。
了
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